歴史イメージ

梅本氏と浄徳寺


梅本氏は、もと熊野八庄司の一つで、吉野庄司與逸正綱と称し、十津川村五百瀬に住んでいた。第三代九良の時、後醍醐天皇が吉野に皇居を移されるにあたり、吉野郡内の有力な郷士の長を八名召し出され、旗を下賜され行在を守護させて八旗八荘司と呼んだ。九良もその一人である。八旗八荘司の下には従旗頭十六荘司・三十六公文を置き忠誠を誓わせた。この時に下市他13ヶ村を御料荘と定め、貢物(食料及び武器の確保)と野伏(野武士)の保持を謀られたと思われる。

第四代宮内太輔成清は、御料荘(小路)の山上に山城を構え、大林城と名づけ移り住み、吉野山の皇居であった金峯山寺を守護した。それ故に御料荘司と名のった。

第五代成親は、南北朝の統一後も後南朝を守護する。後亀山天皇の京都への還御(1392年)の陣容に、車駕の後をかためたといわれている。

第六代成正は、1457年12月3日川上村伯母谷に於て、北山一の宮を討ち、神璽を奪った丹生屋四郎左衛門を討ち取ったが戦死を遂げた。1477年には応仁の乱も終わり後南朝も絶え戦乱は終わった。

第九代右衛門佐正善は、荘司(小路)で閑居し、邸宅を山上の大林城から下(現在の浄徳寺北側)へ移したと思われる。そして、正善は蓮如上人の大和巡錫の教化を受け、善南の法名をいただき1484年邸内に一庵を設け、浄徳寺を設立した。また、邸内に梅の老樹があったので村の人は梅本と呼ぶようになり、浄徳寺は梅元山といった。御料荘(御領郷)は事実上無くなったが、室町末期まで名前は残った。また、梅本氏は第十一代正武(1560年)まで御料荘司を名乗っている。

下市地方において応仁以前は金峯山寺の所領であったが、吉野皇居ができてからその支配下に入り、南朝一色化した。金峯山寺は1348年に高師直の攻撃にあい、最初は中立化を謀ったが、やがて北朝方になびいた。そのため、南朝を守護する郷民の失望を招き、勢力は急激に弱まった。そして、御料荘も金峯山寺を離れて、独自の村づくりを始めた。この時代に浄土真宗の吉野進出があり、道場坊主の割拠する処となる。従って梅本氏も真宗門徒集団に参加し、浄徳寺も滝上寺の下についたものと思われる。

戦国時代において、織田信長の命をうけた筒井順慶の吉野攻め(1578年11月)に、第十一代正武は広橋城にて戦うが、下市郷民は中立化して八旗以下は降伏した。そして、織田信長は金峯山寺領を没収した。

豊臣時代になると、秀吉は筒井氏を伊賀へ国替えさせ、弟の秀長を郡山城主として大和代官にならしめた。梅本第十二代与一朗正弘は、秀長に仕えたが、秀長逝去後の1591年には荘司(小路)に閑居した。天下統一した秀吉は文禄検地を行い、小路村の石高159石3斗とした。また、御料荘を小路村と改称させた。1595年に秀吉は吉野山金峯山寺蔵王領として、吉野山853石9斗と小路159石3斗を寄進した。これを朱印領といい、梅本第十三代与一正継はその代官となる。

江戸時代に入ると、徳川家康は大阪在陣の時(1614年)に、吉野の要害と寺院勢力の大なることを憂い天海僧正に命じて、金輪王寺をもとの実城寺と改めさせ、金輪王寺の名称は日光山東叡寺(寛永寺)に写し宮門跡の称号にした。それ故、金峯山寺は日光輪王寺宮の支配下になり、天海僧正は学頭第一世を名乗った。また、下市地方は天領といって幕府の直轄地となり、その後、高取藩・津藩・芝村藩・幕府直領(五条代官)と所管が移り変わった。しかし、小路村は江戸時代になっても所管は変わらず、日光山輪王寺宮直轄の吉野山金峯山寺学頭所実城寺の領地で、梅本氏は小路代官であった。代官といっても宮代官であったので、禄は低いが身分は高く五条代官より格式が上だったといわれている。当時、吉野山金峯山寺内では、寺僧(天台)・満堂(真言)・地下衆(南朝の遺臣、実城寺付寺侍)・社僧(勝手神社)と複雑であったが、学頭が一山の支配をしていた。実城寺は学頭のいる寺で、梅本氏は実城寺に年貢を納める代官であり、実城寺付の寺侍であったので地下人とも名乗っている。金峯山寺は、もと興福寺の末寺であったので学頭職において、天海僧正は名前だけで、実際は興福寺別当の大乗院門跡があたっていた。梅本氏は金峯山寺学頭の大乗院門跡につかえる一方で、小路に帰ると浄徳寺檀家総代として寺の護寺に力を入れるとなど、宗旨の違う二つの寺の世話をしていたことになる。その事情を物語る事として、浄徳寺には1764年に大乗院第五十三代門跡隆尊の位牌、1777年に大乗院第五十四代門跡隆遍の位牌が下附されて、浄徳寺尊前にて朝夕の参詣を怠らぬことと記入されている。また、1767年に御簾四枚が大乗院より浄徳寺に寄附されている。

1775年に梅本家は、本家・分家に分かれ、代官職を交代でするようになった。1830年以後より、金峯山寺の学頭は叡山に属して、吉野山に常在せず学頭代が代行することになった。それで、日光の宮が上洛したり、学頭が入峯(吉野山入り)した際には、梅本家の本家と分家が交代してその接待にあたっている。また、小路村庄屋・年寄・百姓代もお供をしている。梅本氏の代官職は、1871年まで続いた。現在、本家は東京都に、分家は生駒市に転住しており、小路には不在である。

(梅本家墓地)

(善南墓)