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住職法話


(3月の法話)

「ひとは泣きながらこの世に生まれてくる」
「生まれてくるとき、ひとが泣くのは、愚か者ばかりの大舞台に生まれてくることが悲しいからだ」これはシェークスピアの悲劇『リア王』の一節です。
人生を悲劇とみるか、楽劇とみるか、人それぞれ意見があることだと思います。
しかし、今、私がここに生きているということは

「(1)自分の自由意志でこの世に生を受けたのではない。
どうしょうもない何かの力によってこの世界に人間として送り込まれてきたとしか言いようがないということ。」

「(2)生まれてきた日から何処へ行くか決まっている。
生きるということは、生を受けたときから死に向かって接近していく旅であり、行き先が決まっているということ。」

「(3)その期限が定まっている。
死という終着は何時やってくるかわからないけれど、いつかはやってくる。そして、ある寿命という期限を越えることはできない。」


この三つの問題を完全に理解して納得できなくて、人生に希望とか価値とか見つけられるのでしょうか。
わたしたちは、毎日、この問題の理解も自覚も納得もすべて中途半端に途中で横に置いてい生き、生活しているのではないでしょうか。
この三つの問題を中途半端にせず追い求め続けられたのは親鸞聖人です。
親鸞聖人は自分の命のはかなさを徹底的に自覚することから、大きな命の流れを確信する道へ導かれていきました。
そして、私たちに、『歎異抄』という書物で
「わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、このよは燃えさかる家のようにたちまちに移り変わる世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実と言えるものは何一つない。その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである」
とお伝えくださいました。合掌。

釈良成

   
(2月の法話)

仏壇の前で、「ち〜ん」「ち〜ん」と馨を二つならします。その後、「きみょうむりょうじゅにょらい・・・」とお経をあげます。よく聞かれることがあると思います。これは浄土真宗の「正信偈」というお勤めです。
『歸命無量壽如来』
『南无不可思議光』
これは、阿弥陀さまのお名前をよんでいるのです。浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来さまです。阿弥陀さまは「無量壽」(はかりしれないいのち)と「無量光」(はかりしれないちえ)の徳をもたれたかたです。そして、苦しみ悩むものを必ず救うという誓いにもとずいて私たち凡夫を無条件で救うはたらきをいまも続けてくださっています。すなわち、私はすでに阿弥陀さまの願い(私たちを救う)の中につつまれているのです。念仏者たちは阿弥陀さまのはたらきを親心になぞらえて「親さま」と呼び、身近なかたと感じ喜ばれています。そして、いつも「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまのお名前をよばせていただいているのです。

釈良成